【今週のみ言】霊界について 天一国2年天暦2月16日(陽暦3月16日)第7号


霊界、肉界の中心

霊界と肉界、霊的な存在と肉的な存在も同じです。ここは神様の愛、神様が中心になっています。我々が普通考える堕落した人間は、神様が中心になっていません。

人間は、心と体から成っていますが、それとは違います。次元が違うのです。心と霊界は違うのです。霊界と肉界とは、神様の愛を中心として言うのです。したがって、霊界と肉界が一つになるためには、必ず神様が介在しなければなりません。神様の愛が介在しないことには霊界はありません。神様を中心として霊界というものがつながるのです。

「自分の心も霊だろう」と考えるかもしれませんが、混同しています。心は霊界ではありません。堕落したために、心は霊的世界と関係を結んでいません。いわば、骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心であると考えれば実感がわきます。骨のない人のような形態が、堕落した人間たちの心というものです。

 霊人体を見ると、霊人体も体的な要素があり、心的な要素があります。霊人体の心のようなものが、霊的世界です。それは必ず神様と関係を結んでいます。それゆえ、神様と関係を結ばずには、霊人体の心のようなものが生じないのです。霊と心が違うということを知るべきです。心は、神様と関係がないのです。神様が離れたのです。神様ご自身が関係することができません。神様が直接主管できないのです。

皆さんの心は、ああしたりこうしたりと変わります。しかし、霊的世界、霊的存在は変わりません。それは、永遠に一つの目標を立てて、絶えず行くのです。それは、なぜそうなのでしょうか。神様の側に立っているからです。心は、人間内に属しています。行ったり来たりする人間内にあるのです。

 皆さんは原理を学んでいるので分かりますが、生心とは何でしょうか。生心とは、心と霊が合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として、我々の良心と一つになり、理想的な自分をつくり上げ得る動機的心です。それで、その生心がなくては、霊界と真なる愛と関係を結べる、自体の根源を探すことができません。

生心が自分に生じれば、体も喜び、全部それについていきます。自動的にこれらが一つになるのです。今まで、人間にとって一番問題になることとは、体と心が互いに離れているということです。霊的な力が自分に臨んで生心的起源にさえなるようになれば、心と体が自然に一つになるのです。そのような根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見できない限り、我々は理想を尋ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てくるのです。宗教は生心を植えつけようということです。生心を中心として多くの宗教があります。ありとあらゆる形態があるのです。(九一-一四二、一九七七・二・六)

 

明らかに実存する霊界

 神様は、尊厳な方です。それで、霊界と肉界は一体化を成さなければなりません。

真の愛が現れなかったために、霊界と肉界が統一できなかったのであり、真の愛が現れなかったために、心と体が分かれたのであり、真の愛が立たなかったために、宗教と政治が分かれたのです。

 真の愛を中心として、全部一つになるのです。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙が、みなつながるのです。我々の手で、そのようにしなければいけないのです。そうでなければ、本然の天上天国、地上天国を相続することはできません。霊界と肉界の一致をどのようにするのでしょうか。真の愛で一つにするのです。(一二六-一〇六、一九九一・三・九)

 世界人類の中で、霊界を知らない人は八〇パーセントになります。信じる人たちも、霊界があるか、神様がいらっしゃるか、はっきり分かりません。しかし、霊界はあります。考えてみてください。この世の金持ちが、これから幸福の園をつくろうとするとき、自分のすべての財産をつぎ込んでもつくりたい気持ちがあるのと同じように、天地を創造なさった神様は自分のお住まいになる所をいかにつくつたでしょうか。

 霊界は、どの部分を探して凝視しても、千年眺めても飽きない美の世界です。想像を絶します。何か世界で最良のものがあったとしても、霊界に比べれば何でもありません。霊界の一角にもなりません。ですから、この地上が欲しいとは思いません。私に言わせれば、この地上は私の目的に適っていないので、帰りたいのです。(一五一五四、一九六五・一〇・七)

一般の人の大部分は、今も霊界を考えません。生まれたから、ただ父母といっしょに家庭で暮らしている、このように生まれたからこのように暮らしている、と思って生きています。そのように暮らすすべての生活の中心とは何でしょうか。どのように食べ、どのように暮らすかということです。それゆえ、一番重要なことを衣食住ととらえています。

 どのように住むかという問題、どのように食べるかという問題、どのように装って暮らすかという問題、これが中心だというのです。もちろんそこには、人間関係において人倫道徳があり、向上し、互いに発展し、互いに喜び合える内容がありますが、その道徳基準が異なり、民族が異なり、国家が異なり、世界すべての文化背景の差によって、生活基準や社会制度が全部異なるのです。

このように見ると、人間が求めるべき本然の基準、すなわち創造本然の基準と、

今日、我々が暮らしている生活の標準として立てていくべき人倫道徳の基準との間には大きな差があります。これが一つに収拾されていません。本然の世界に基づいて、我々が生まれ、生きてから、行き着く所はどこでしょうか。これがはっきりしていないのです。ですから一般の人たちは、霊界があるかないか、神がいるのかいないのか、知らずにいるのです。

しかし、原理を学んだ人たちは、霊界が確実にあるということを知っているのです。信じているだけではなく、知っているのです。なぜでしょうか。多くの体験を通じて知っています。今日、統一教会がこれほど世界的な基盤を形成するまでの背後を調べてみるとき、多くの体験過程を経てきているのです。それゆえ、「霊界はない」と言うことができない立場にいる人たちが、原理が分かる人たちです。(一四〇-一二二、一九八六・二・六)

 原理が分かる人たちは、どのような道を行くべきでしょうか。神様が願う道に従っていかなければなりません。天意の道に従っていくのです。天意とは何でしょうか。

個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界が行くべき天意の道があります。その専門家が、私です。霊界は、間違いなくあります。(二二-一四六一九八二・一〇・二四)

 神様がいて、霊界があるなら、どのようになるでしょうか。ある人は、「神様がいるとしても我々とは関係ない」と思うかもしれませんが、それは考え違いをしています。「霊界があっても私とは関係ない」と言うのは、まるで「自分は家庭の一員であって、国も世界も必要ない」と言っているのと同じなのです。

 それゆえ、もっと大きな神様がいて、もっと大きな霊界があるなら、もっと大きいものと関係を結ぶことを自分は願います。関係しているだけでなく、関係をもって何をするのでしょうか。一つにならなければなりません。一つの目的に向かって行かなければならないのです。(一〇四-二九、一九七九・四・二二)

 使徒パウロが霊界の「第三の天」 の世界を見て体験したことが、彼にとって十四年問絶えず宣教活動をし得る原動力になったのです。分かりますか。そのような体験がなければなりません。私もそれと同様です。(二七-一三八、一九六九・二・三〇)

 私は、死を恐れません。何がそのようにしたのでしょうか。愛です。獄中にいくらほうり込まれても、私はそれも消化することができます。ですから、今日このように反対する環境を消化して屈服させてきたのです。私の手で全部屈服させたのです。(二〇二-二七、一九九〇・二・五)

                      ‐ 天国を開く門 真の家庭 -